信徒の声


Hさん夫妻の声

(夫Mさん)

 1995年に妻が大病を患い、ふと、教会に行きたい、と言い出しました。最初のころ私は教会への送り迎えだけをしておりましたが、「自分達が子供に残せるものは信仰しかない。信仰を受け継いでもらいたい。」という妻の強い希望があり、私も、妻の気持ちに添う、という形でN教会で共に礼拝に与るようになりました。

 深いところで捉えられていたわけではなかったのですが、妻の受洗から2か月後のクリスマスに私も受洗いたしました。受洗の1年後には会堂建築委員会が発足し、まだ教会員のお名前も知らず、聖書を開くことさえおぼつかない状態の私も、その委員会の中に組み入れられ、その後の数年間は会堂建築のために教会に行くような状態が続きました。会社の繁忙期とも重なり、妻のことを気遣う余裕もなく、会話のない教会生活でした。

 無事に献堂式を迎えることが出来た時には、多くの教会員の志が担われ、運ばれてきたことに、ただただ感謝でした。その後数年間は瑕疵、補修を見届け、幸い妻も健康を守られましたので、二人で全く一からスタートし直したいという 思いが強くなりました。

 主は私達を見捨てることなく、この 勝田台教会へと導いてくださいました。私はこの加入式を心から求めた洗礼式と受け止めております。皆様と共に礼拝に与り、主の恵みに 感謝し、喜んで生きていくことができますように。

 

(妻Kさん)

 このたび、勝田台教会の一員として、互いにとりなしの祈りが芯にある主にある交わりの中に招き入れて下さいましたことを心から感謝いたします。勝田台教会には福音が満ちあふれています。私達は二人とも、できるものなら洗礼を心から求めて受け直したいと思うほどに、新しくしていただくことを願っておりました。みことばの喜びの内に留め置いてくださいと祈り続けたいと思います。


Iさんの声

 私が教会に行くようになったきっかけは、弟からの紹介でした。

 弟は教会に行くようになった頃から、おとなしくて無口な性格が明るくなり、笑顔も増えて家族とよく会話するようになりました。家で聖書のことや教会でのエピソードを聞いて、「教会ってどんなところなんだろう。こんなにも人を変えるものはなんだろう。」と思うようになりました。

  ある時、突然弟に誘われて日曜日の朝に教会に行きました。神様のことや聖書のことが全く分からなかったため、初めて聞いた説教は何も分かりませんでした。しかし、教会の方々がとても温かく迎えてくださったことだけはよく覚えています。それからも度々礼拝に通い、沢山の方々との出会いがあり聖書の学びの機会も増えていきました。

  1年間で自分自身のこと、家族のこと、仕事のことで様々な変化があり、喜びもあれば本当に苦しいこともありました。その中で神様からの言葉に、何度も何度も励ましと慰めをいただきました。

 

 ヨハネによる福音書15:16

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

 

 この言葉がとても心に響き、洗礼を 受けたいと心から思うようになりました。牧師に相談をした時、偶然なのか ヨハネの福音書15:16を読み上げてくださり、なぜか涙が溢れてきました。その時本当に神様はいてくださると感じました。そして6月19日、洗礼の恵みを受け、新たに信仰生活がスタートしました。私は日常に追われ忙しい毎日の中で、神様の御心を考えられない、忘れてしまう、背いてしまう自分がいることがあります。それでもいつも神様に依り頼み、共にいてくだる喜びを感じて、感謝する気持ちを忘れずに過ごしていきたいと思います。

 微力ですが、神様の家族の一員として教会のために一生懸命仕えていきたいと思います。 


Kさんの声

2014年12月21日の、クリスマス記念礼拝の日に信仰告白式を行っていただきました。

私の両親はクリスチャンですが、私も生まれて間もないころに幼児洗礼を受け、幼い頃から毎週日曜日には教会学校へ通い、聖書を学んだり、讃美歌を歌ったり、家では家族全員で食前の感謝の祈りを欠かさないような環境にいました。けれども、10代半ば頃に、私は自分のことでいっぱいになり教会を離れてしまいました。

母が病気を患った頃でした。母の入院中や自宅療養中には、教会の皆様にお祈りをいただき、また教会の牧師先生や、教会の姉妹に何度もお見舞いに来ていただき、一緒に祈ってくださり、また一緒讃美歌を歌ってくださり、聖書の御言葉読んでくださり・・・母は主にある信仰友と交わる尊い時間を心より喜び、感謝をしていました。

母の病気を知った当初、私は、神様はなぜこんなにも神様を愛し、信仰を持ち続けている母に辛い試練をお与えになるのだろう?という気持ちがありましたが、母を見つめていく中で、神様はいつも母のそばにいて、母を愛してくださり、たくさんの恵みを与えてくださっていたことを感じました。母は私に「信仰をもつことは素晴らしいことなのよ」と何度も話していました。

そして、幼い頃に両親と姉兄と一緒に教会へ行っていたことを思い出し、改めて神様と向き合いたいと心に思いました。

 信仰告白式に至るまでの間、不安も ありましたが、牧師先生に背中を押していただき、教会の姉妹にご協力をいただきながら、教会や聖書のことを学ばせていただきました。また、長老の皆様にも貴重なお話をきかせていただきました。

そして、信仰告白式には、教会の皆様より温かな祝福の言葉をいただいて本当に嬉しかったです。この場を借りて心より感謝申し上げます。


Fさんの声

 神様は私をいつから見ていてくださったのでしょう・・・。

 遡りますと小学生の頃、クリスチャンの友人にクリスマスのお泊り会等に誘ってもらった記憶があります。自然とイエス様やクリスマスの事を知りました。

 高校生の頃、伝道で配られた聖書を持って帰ります。20歳の頃、母がシンガポールで教会を知り洗礼を受けます。それから、聖書の御言葉を聞く機会が増えました。26歳の頃、息子の出産の際に長期入院をして、教会の皆様がお祈りしてくださっていると母から聞きました。10年務めている会社の上司がクリスチャンだったこと。

 神様は私に、何度も神様を知るきっかけを与えてくださいました。そしてこの後、神様はこんな私を、ガッチリととらえてくださいました。
 

 2012年1月、娘が川崎病で入院をします。数週間高熱が続き、絶飲食の中、苦しみ弱っていく娘を横に、私は何もしてあげられず、初めて神様に心の底から救いを求めて祈りました。祈り方も知らない私は、病室の床にうずくまり、ただ聖書を握りしめ、娘を助けてくださいと必死に祈りました。 そして、神様はこんな私に、御業を見せてくださいました。その時の事は、私の乏しい言葉ではお伝えできませんが、自分の傲慢さ、神様の前での自分の無力さ、神様の愛を感じ、「神様を信じて歩みたい」と思わせていただきました。

 2012年4月、坂井先生と出会います。洗礼まで坂井先生は聖書をわかりやすく丁寧に教えてくださいました。漠然としていたキリスト教の事を知り、この救いの道を歩むことができたら、どんなに幸せだろうと感じ、「生きていてよかった」と先生と泣いて喜びました。

 洗礼の時が近づくにつれて、私の罪はイエス様の十字架の愛で赦していただくに値しない、恐れ多い、申し訳ないという気持ちになりました。洗礼という事をしなくても、聖書を知る事はできるのでは、とも考えました。でも何度も、聖霊が私に働いてくださり、引きもどしてくださいました。水で清められたときに、肩の力が抜けて、今まで自分を締め付けていたものがなくなり、古い自分が崩れていく感覚でした。こんな自分も、イエス・キリストのものなのだ!と思いました。

  きっとこれからも色々な事があるはずです。天国へ行くには未熟すぎます。クリスチャンとして成熟するために必要な試練が与えられる事と思っています。その時に、揺るがず雄々しくあるのが理想ですが、実際は不安になり動揺するはずです。試練によっては信仰をも揺るがされる事があるかもしれません。しかしこれからは、私の洗礼のためにずっと祈ってくださり、私の子供の事をわが子(孫)のように大切に思ってくださる勝田台教会の兄弟姉妹がいます。そして、皆様と同じ聖書を持たせていただいています。神様がすべて備えてくださると信じて、歩んでまいりたいと思います。 


M.Iさんの声

 私達夫婦は、数年前、埼玉から千葉に引っ越してきました。クリスチャンだった私たちは、千葉で新しく教会探しをスタート。いくつかの教会を訪れた後、最後に来たのが勝田台教会でした。
  家から車で20分の程よい距離で、教会堂も素敵。何よりも、初日の礼拝メッセージに心惹かれました。それは、「イエス様は、弟子たちと共に食事を楽しみました。食は、神様からの贈り物です。私達も、神様からの贈り物であるおいしい食べ物を喜びましょう」というような内容でした。世界を創造された神様の御業を喜び、社会と文化の中にある神様の恵みを感じて、わくわくしました。「この教会で決まりだね!」と、帰り道、夫婦で意見が一致しました。
  それから今日までの間に、2人の男の子が生まれ、今はワンパクざかりです。毎週、教会員の方々から子供たちは優しい声をかけていただき(時には、おいしいおやつや動物パンをいただき)、教会の子供として育てていただけることを、感謝しています。


K.Tさんの声

 私が初めて勝田台教会を訪ねたのは、クリスマスイブの礼拝でした。「クリスマスにはキャンドルサービスをしたい。」そんな思いで参加したのがきっかけでした。街の様子とはまったく違う、静かな心温まる礼拝でした。
  それから日曜日の礼拝に参加するようになり今に至っています。讃美歌がたくさん歌える事と、皆さんの和やかな雰囲気が一番気に入っています。